⽔環境中の微⽣物の起源解析
⽔環境における衛⽣学的⽔質基準として我が国では⼤腸菌群が⽤いられてきましたが、糞便汚染を明確に捉えていない状況が⾒られることから、⼤腸菌への⾒直しが予定されています。我々のこれまでの研究において、琵琶湖から単離した⼤腸菌の全ゲノム解析により、琵琶湖から検出される⼤腸菌の排出源は⼤半は⼈由来ではないことが⽰唆されています(H28-30環境省環境研究総合推進費、代表 東京⼤学 ⽚⼭浩之)。⽔質基準を⼤腸菌へ変更するにあたり、⼈由来と⼈以外の動物由来の⼤腸菌を判別することは⾮常に重要です。例えば新しく設定される⽔質基準の⼤腸菌を超過した場合に、排出源が⼈ではなく野⽣動物であった場合に基準超過と判断するのかどうか。まずは、⽔環境中の⼤腸菌の起源を把握する調査が必要です。
⽔環境中の⼤腸菌の排出源を調べることは、⽔環境中の微⽣物の起源を把握することにつながり、⽔環境における⼈健康の確保とって重要な情報です。⼈糞便由来であれば、それは下⽔処理場や地域によっては浄化槽などでの微⽣物の除去が重要であることを意味します。⼀⽅、⽜や豚、鶏などの家畜糞便由来である場合には、畜産廃棄物の処理が重要であることを意味します。野⽣動物の糞便由来の可能性もあります。我々は、令和2年度からスタートしたERCA環境研究総合推進費“⼤腸菌等に関する起源解析⼿法の開発及びその活⽤に関する研究“(代表 東京⼤学 ⽚⼭浩之)において、⼤腸菌の起源解析に取り組んでいます。
具体的には、京都⼤学の五味良太先⽣との共同研究で、公共のデータベースに世界各地から登録されている膨⼤な数の⼤腸菌の全ゲノム配列を取得し、スーパーコンピュータを使い、ヒト、トリ、ウシ、ブタおよびそれ以外の動物を宿主とする⼤腸菌の遺伝⼦マーカーを提案します。同時に、琵琶湖流域で⼤腸菌、薬剤耐性⼤腸菌の実態調査を⾏います。単離した⼤腸菌の全ゲノム配列を次世代シーケンサーで解読し、提案する遺伝⼦マーカーの検証を⾏います。
これまでのところ、畜産地域を流れる河川において、晴天時に⽐べて⾬天時に⼤腸菌や薬剤耐性⼤腸菌の濃度が上昇する時系列データが得られており、⾯源からの⼤腸菌の流⼊が⽰唆されています。今後も調査を継続していきます。
⾬天時の下⽔処理場からの微⽣物流出の問題
⾬天時の下⽔処理場では、下⽔に⾬⽔が混⼊して⽔量が増加するので、下⽔処理場から下⽔が溢れる事態をさけるため、やむをえず下⽔を沈殿処理と塩素消毒だけして放流しています(簡易処理放流)。合流式下⽔道だけでなく、分流式下⽔道でもこのような事態が発⽣していることが次第に明らかとなってきています。この事態を解決するために、国⼟交通省はこれまでに合流式下⽔道の改善事業を実施したり、2020年には分流式下⽔道における⾬天時侵⼊⽔対策ガイドラインを策定しています。
処理が不⼗分な場合、微⽣物が⼗分に除去されないまま放流先の⽔域へ排出され、下流での⽔利⽤を介した⼈健康への悪影響を与える懸念があります。病原ウイルスが未処理のまま⽔環境へ排出されれば、病原ウイルスによる感染リスクが⾼まることになります。海外では、2010年にデンマークで⾏われたトライアスロン⼤会において、降⾬後に⼤腸菌濃度が上昇した環境で競技を実施した結果、遊泳者のおよそ40%が体調不良となった事例も報告されています。しかしながら、降⾬時の簡易処理放流発⽣時の微⽣物の排出実態は⼗分には調査されてきませんでした。しかし、この問題の解決を目指す自治体の協力を得て実施した我々のこれまでの調査では、下水処理場で雨天時に簡易処理放流が発生するタイミングでアンモニアやSS、TOC濃度とともにウイルス濃度も上昇する結果が得られています。日本では簡易処理放流をせざるを得ない状況では塩素消毒を強化する対策が取られることが多いので、ただちに人健康への影響が起こるわけではありません。しかし、今後は、⾬天時の下⽔処理場からの微⽣物流出をいかに抑制するのか、対策が求められます。
感染症対策のための下⽔から得られる感染症情報の活⽤
COVID-19の感染者は世界的に増加を続けており、収束が全く⾒通せない状況です。これまで、感染者数の把握は⼈検体のPCR検査が主流ですが、感染しているが症状のない⼈(無症状者)、病院を診察しない⼈、が検査の網から漏れている可能性があります。実際に、⾸都圏での感染者の増加は、有症状者や濃厚接触者の検査を中⼼とした積極的疫学調査で追えていない、その背後に感染者から拡⼤していると⾔われています。また、検査規模を拡⼤しても、多⼈数を毎⽇検査するのは規模や費⽤の⾯で⾮現実的です。このように医療機関等のPCR検査では発症者の陽性判定には有効であるが、クラスター発⽣の防⽌と無症状感染者も含めた感染者の早期発⾒の観点では⼗分ではないと思われます。この課題を補⾜するアプローチとして、⼈から排泄された糞便を含む下⽔のウイルス濃度を測定する“下⽔疫学”の活⽤が検討されています。下⽔疫学により、無症状感染者も含めた市中での感染状況の把握、感染拡⼤や感染収束の⾒極めが⾏えると期待されています。このアイデアは海外では既に多くの国で社会実装されており、例えばアメリカでは、下⽔でのウイルス濃度が医療機関でのPCR検査の結果がでるよりも早く上昇することが報告されています。海外の多くの国では、政府や⾃治体の⽀援を受けて、⼤学だけでなく⺠間検査機関も参加して、下⽔から得られる情報を社会における感染症対策に活⽤する取り組みが実⾏されています。
これに対して⽇本では、これまで、⼤学の研究者が中⼼となって取り組んできました。下⽔中の病原ウイルス研究の積み重ねとノウハウを持った複数の⼤学から、SARS-CoV-2遺伝⼦検出事例が既に論⽂報告されています。我々も、これまでに、近畿地⽅の下⽔処理場の流⼊下⽔を毎⽇採⽔し、PCRでSARS-CoV-2遺伝⼦を検出してきました。その結果、PCRで定量値までは得られず陽性と陰性が判定できる濃度レベルであっても、繰り返し分析に占める下⽔陽性数と下⽔集⽔域のCOVID-19の新規感染者数の動向がよく⼀致することを⽇本で初めて明らかにしています(2021年3月9日 日本水環境学会COVID-19タスクフォースwebセミナーにて発表)。下⽔での感染拡⼤の検知や収束の⾒極めは、⼗分に実現可能なアイデアであると思われます。
我々は、⺠間検査機関との共同研究も実施しており、下⽔疫学の社会実装に向けて取り組んでいる最中です。⼀つは、下⽔中のウイルスを検出するための感度の向上に取り組んでいます。また、重症化リスクの⾼い⾼齢者が多く利⽤する病院や介護施設などでの下⽔調査とクラスター発⽣の防⽌にも取り組みを開始しました。自治体の協力を得て、実証試験を開始しています。これらの取り組みは大学研究者だけでできるものではなく、十分な技術と施設、実施体制を持った民間企業との連携で初めて可能になります。
下⽔中の感染性ウイルスを定量する技術の開発
多くのウイルスは培養できないので、⽔中のウイルスの定量には遺伝⼦を検出するPCR法が⽤いられています。しかしPCR法は遺伝⼦を検出しているにすぎないので、下⽔処理過程や⽔環境中で不活化して感染性のないウイルスまで検出してしまい、感染性のウイルス濃度を過⼤に⾒積もる⽋点があります。この⽋点を克服するために、これまでに様々な⽅法が提案されています。我々はその中でも抗体を⽤いた感染性ウイルスの定量技術の開発に取り組んでいます。具体的には特異的抗体を⽤いて⽔試料中のウイルスを免疫沈降させてPCRで定量することに挑戦しています。抗体と結合するノロウイルスは表⾯構造を保持しており、感染性ウイルスを⽔試料中から濃縮できると期待しています。この技術は、夾雑物の多い下⽔から感染性ウイルスを精製する技術としても期待しています。
これまでに、モデルウイルスとしてMS2ファージを⽤いて検討してきました。抗MS2抗体を⽤いてリン酸緩衝液中のMS2ファージを免疫沈降して回収し、抗体とMS2の結合を界⾯活性剤で解離させて得た溶液からMS2が培養できることを確認しています。さらにはプラーク数をカウントすることで、初期のMS2量の⼤半を抗体による免疫沈降で培養可能(すなわち感染性あり)な状態で回収できることを確認しています。抗MS2抗体が認識しないQβウイルスは免疫沈降で回収されないことや、MS2のゲノムRNAは抗体で沈降していないことも併せて確認しています。これらの結果は、特異的な抗体が作成できれば、下⽔中から感染性ウイルスを特異的に回収し定量できることが原理的には可能であることを⽰しています。今後は、免疫沈降をスケールアップさせて⼤容量の⽔からのウイルス濃縮法の開発に取り組みます。